20世紀は悲喜こもごも至る年代でした。悲しかったのは、一、二次世界大戦が前後して起きて、多くの国家と人民に戦争の苦難を受けさせた。喜ぶのは、工業の発展や管理の進歩に大きな推進作用を起こした。工業化の普及につれて、手作業によりの品質不安定、量産できない、コストの高い欠点を克服した。特に、50年代には、アメリカの製造加工業は機械装備に対する依存性が強くなるとともに、設備の故障率が増えてきて、製品の品質にも影響したり生産効率も上がらなかったりしてた。
先進的な設備は保守するのに難しいことがある。複雑な設備は部品がたくさんあって、設備自身の品質と精度は生産中の製品を左右してる。さらに、設備を操作する従業員は設備の性能が詳しくなくて、操作ミスで、管理遅延して、設備を保守するコストもますます増えてきた。
以上の問題を解決するために、アメリカはヨーロッパの工業革命の成果を参考して、設備保守の経験を纏めた。設備の故障が起こったあとで応急措置を取る事後処置方法をBreakdown Maintenance(BM:事後保守)と言われてる。設備の故障が起こる前に対策を講ずる事前処置方法をPreventive Maintenance(PM:予防保守)と言われてる。設備の寿命を延ばすための改善活動をCorrective Maintenance(CM:改良保守)と言われてる。不良品も故障も起こらないように取る措置をMaintenance Prevention(MP:保守予防)。最後、以上のBM、PM、CM、MP四つの活動を統合して管理する活動をProductive Maintenance(PM:生産保守)、それから、設備管理の科学的な方法を見つけた。これはTPMの雛型。アメリカの企業はこの先端的な管理技術と方法を利用して、設備の故障も減れば、生産効率も上がれば、コストも下がれば、経済も日に日に発展してきた。
戦後、日本はアメリカのことを勉強してた間に、アメリカのPM生産保守を日本に導入して、和式のPMを創立した。TPMの歴史にあって、特にTPMに貢献したNippon Denso(日本電装)会社は、豊田自動車株式会社の部品供給者の一つである。Nippon Densoは1961年にGE会社を代表として、アメリカ式のPM生産保守を導入して、これを母体として和式のPM活動を探索し始めた、1968年、生産と保守の全員が参加するPM活動を確立して、2年間も経って成功した、つまりTotal Productive Maintenance (TPM:全員生産保守)。その時、Denso会社は生産と設備部門の繰り広げたPM活動により取った大きな成果を全日本PM賞大会に発表して、ともにPMの優秀賞を取った。Denso会社のPM活動の不思議な効果で、業界にセンセーションを巻き起こした。出席した専門家と学者はこの会社の現場を見学してから、生産部の80%~90%の従業員はこの活動に参加してることを見つけた。そして、母体のPMと区別するために、PMの前に“T”をつけて、正式にこの会社のPMをTPMと命名した。1971年、TPMは正式に日本設備管理協会(IPE)に認められて、日本企業界に全面的に推進した。しかし、当時のTPMはただ生産と設備部門に展開する一部分のTPM活動で、活動も設備を中心として、だから今でもたくさんの企業と人はTPMを設備管理の面だけだと思ってる、専門人士はそれを“流行のTPM”と呼ばす、実は現在のTPMの範囲はすでに完全に拡大して、理論のほうも本質的に飛躍した。 |